2026.04.01

その他報告

月刊水泳から『JAPAN AQUATICS MAGAZINE』へ

 大日本水上競技連盟が創立された1924年10月31日から遅れること6年弱。1930年8月に月刊水泳の創刊号『水泳』が創刊されました。
 1930年と言えば、神宮外苑プールが竣工し、第9回極東大会が行われた年です。そして日本水泳連盟のプール公認制度を取り入れたのも、この年でした。
 少し歴史を辿ると、前年の1929年に大日本水上競技連盟から、日本水上競技連盟に改称しました。またその1年前、1928年には国際水泳連盟への加盟を果たし、アムステルダム五輪に出場した競泳選手たちは金メダル1、銀メダル1、銅メダル1の合計3つのメダルを獲得しました。
 金メダルは、男子200m平泳ぎの鶴田義行氏が獲得し、新井信男氏、佐田徳平氏、高石勝男氏、米山弘氏(予選に野田一氏)で臨んだ男子4×200mリレーで銀メダルを勝ち取る。そして高石氏は100m自由形でも銅メダルを獲得する活躍を見せることとなりました。平泳ぎ、そして4×200mリレーが今も日本のなかで重きを置かれる種目であるのは、ここに由来するものでしょう。
 水泳が五輪に参加したのは、陸上の金栗四三氏が初めて日本人として五輪に参加した1912年から遅れること8年、1920年のアントワープ五輪です。当時はベルギー・アントワープへの往復だけでも半年近くかかったという話。まさに行くのも命がけ、帰ってくるのも命がけという時代でした。当時、近代クロールという泳法を知らない日本は、日本泳法で世界に挑みました。そこで世界の発展を目の当たりにした日本は、猛然と研究と研鑽を積み重ね、五輪初出場から8年後に世界の頂点に立ったわけです。
 その2年後、次のロサンゼルス五輪に対して選手の意思疎通、そして技術の研究を進めるという使命を掲げて『水泳』が創刊されました。その当時の発刊時の決意が1ページ目に刻まれています。
『發刊の辭——吾邦水泳は世界的地歩を確立した。次のオリンピツク大會は目前に迫つて居る。今こそ擧國一致之に備へなければならない。全國泳者の意思の疏通と、其協力による技術の研究とが急務である。本誌は此使命を帯びて生れた。未だ不充分である。然し將來は必ず健全な發育をするであらう。全國泳者諸君! 乞ふ比の吾等の雜誌にも協力を惜む勿れ。』
 この2年後のロサンゼルス五輪では、金メダル5、銀メダル5、銅メダル2の合計12個に大躍進を果たし、さらに1936年のベルリン五輪でも金メダル4、銀メダル2、銅メダル5の合計11個ものメダルを獲得し、日本水泳界の第一期黄金期を築き上げました。
 状況は違えど、思いは同じではないでしょうか。今こそ、再度『全國泳者の意思の疏通と、其協力による技術の研究とが急務』であり、次の五輪に備えなければなりません。その使命を、1930年では雑誌という形で表しました。そして今、再度この使命を背負い、私たちは場所をwebに移し、新しいスタートを切ります。

 2026年4月。月刊水泳は新しく『JAPAN AQUATICS MAGAZINE』へと生まれ変わります。

『水泳』を発刊した先人たちの思いをもう一度思い返し『挙国一致』して世界に挑む。その思いを新たに、新しい挑戦をスタートさせます。今までよりも、さらに多くの情報を皆さまにお届けできるように尽力してまいります。温故知新。そのすべてを、JAPAN AQUATICS MAGAZINEへ。これからもよろしくお願いいたします。

2026年4月1日

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